Sindhu Bungalow
PanchiOL時代は、夏休みは海外旅行、年末はスキーというパターンだった私。個人旅行がほとんどで、レンタカーとか借りて自分の好きなようにできる旅が好きで す。退職後は友達とタイとバリ島(合計5ヶ月間)にロングスティ。 来年からできればバリ島に移住すべく、現実は厳しいけどもっか奮闘中。 Vol.4 教えたくない隠れ家「Sindhu Bungalow(シンドゥ バンガロー)」2001.7.28 update バリ島の最北“ロビナビーチ”でルンバルンバ(イルカ)に会えてご機嫌な私達は、次の目的地を穏やかな 海とサンセットが美しいSanur( サヌール)に決めた。クタやデンパサールにも近く、デラックスなヴィラも多いサヌールだが、西洋人が好むこの地には何か落ち着いた雰囲気がある不思議な場所だった。 素敵な旅には演出も必要である。旅で私がこだわるもの・・・、そう部屋だ。もちろん値段と立地条件にも こだわる私は、初めての地で少々苦戦していた。そう、当然ながら素敵な部屋は値段も高いのである。 だが予期せぬ出会いはあるものだ。これも旅の醍醐味なのだが・・・。“DanauTanbling通り”のGAZEBO(ガゼボ)コテージを覗いた後、昼食を取るためにすぐ近くのレストランに。 と、ふと日本語の「 ホットシャワー&キッチン付き」という看板が見えた。「おっ!」直感で何かを感じ 取った私。友達の顔を見ると、どうやら同じ気持ちらしい。 はやる気持ちを抑え、超特急で昼食をすませた私達は、ヴィラを見たいと店員に申し出た。 表通りからビーチがある方向に向かって少し歩くと、想像していたより大きな白いヴィラがあった。 部屋はダブルサイズのツインと、キングサイズの1ベットルームだ。それぞれにTV・AC、収納家具に 洗面所・シャワー、バルコニーもある。内装は白で統一されて、部屋は清潔!(これは重要ですよね) 広さも2人で過ごすには十分すぎるスペースだ。 特徴的なのは、キッチンやリビングがあることだろう。ヴィラによって2つの部屋の間に挟まれていたり、 独立型だったりと、グループ&ファミリー向けにはなんとも嬉しい条件だ。キッチンには大きな冷蔵庫に、 備え付けのミネラルウォーターもある。料理は材料だけ買えば、鍋やお皿など必要な物はすべて備えてある ので心配ないようだ。何より素晴らしいのは目の前がビーチということだろう。ロケーションも文句なしだ。 1週間ここで過ごすことに、即決したのは言うまでもない。 【閑静でのびやかなヴィラ】キングサイズの1ベットルーム。 エアコンがあるけど、窓を開ければ風が通って気持ちいい♪部屋のまわりは、ココナッツやバナナの木にバリの花々等、 緑あふれる庭がある。 お部屋と同様、毎日丁寧にスタッフが手入れをしている。 [Read More…]
Vol.6 Anconaのフェリー案内人
Vol.6 Anconaのフェリー案内人2002.7.16 update イタリアのAncona港で、私はギリシアに渡るフェリーのチケットを買い、日本の家族へ今からギリシアへ渡るよと国際電話を済ませ、ターミナルの前から出発するという乗船口行き送迎バスに乗るため表へ出た。イタリアではほとんど英語が通じず苦労したが、やっとその苦労から離れられると内心ほっとしていた。 混雑したターミナル前には、たくさんの自動車と人々が行き交っていた。こんな狭いところからバスが出られるのかしらと思いながらも、チケットカウンターの女の子がしてくれた、たどたどしい英語の案内を信じてしばらく待った。 しかし一向にバスは来ない。出港時間は迫る。私は焦り始めた。近くにいた人に尋ねたが、やはり英語が通じない。もう一度チケットカウンターへ戻り、確認するが同じことを言われるだけ。私は歩き始め、そして走り出した。ターミナルのずっと向こうに見えるフェリーがそうかもしれない、けれどそこまで走って行ってもし違っていたら、それこそ間に合わないかもしれない、そう考えるとまた立ち止まってしまった。そして同じようにフェリーに乗ろうとしている人がいないか、きょろきょろし探した。しかし、混雑した港でそのような人を見つけるのは不可能だった。どうしよう、もうフェリーが出てしまう、そう思ったとき、私より少し年配の笑顔の優しい男性が英語で私に声を掛けてきた。久しぶりに聞く流暢な英語だった。「さっき、チケットカウンターで君の会話を聞いてたんだけど」驚いて振り返ると彼はさらに続けた。「君の乗るフェリーはあれだよ。急がないと時間が無いよ。一緒に走ってあげるから」そして彼は、乗船口が見えるところまで一緒に走ってくれた。私は走りながら振り返り、 「ありがとう、ほんとにありがとう!」と叫んだ。 彼は笑って手を振った。きちんと握手をしてお礼が言えないまま、私はフェリーに駆込んだ。 定刻通り、フェリーは出港した。私はデッキから港の雑踏の中に彼の姿を探したが、彼の姿は見届けることはできなかった。感謝の気持で胸がいっぱいで、涙がこぼれそうだった。ほとんど言葉の通じない国で、しかも心細い一人旅で、彼の親切がどれほどありがたかったことか!どんどん遠くなる港を見つめたまま、私は、フェリーまで一緒に走ってくれた彼を始め今まで私に手を差伸べてくれた人々の笑顔を思い出していた。その思い出に浸りながら、私はいつまでも港を見つめていた。
キューバ旅行記
2001年8月18日~27日、夫婦で念願のキューバへ行ってきました。『地球の歩き方~カリブ海2』と、樋口聡さんの『キューバ大情報』で予習をし、その他はネットで情報収集。パスポートを更新し、ツーリストカード(簡易ビザ)も取得。ホテルもエアも予約完了。留守宅を守る2匹の猫を世話してくれるシッターさんも無事確保!というわけで、17日の夜にはすべての準備を終え、出発の朝を迎えたのでした。 なにはともあれ、初めてのキューバ旅行。右も左も分からず、ほとんど「おのぼりさん状態」でしたが、思いっきり楽しんできたので、その全貌をお話ししたいと思います。 Vol.5 キューバの言葉と日本人~2002.12.15 update ~もっとコミュニケーションとりたかったです~キューバはご存じの通りスペイン語圏の国ですが、ホテルのロビー、観光客に人気のレストラン&バー、ホテルの前につけているタクシー等はだいたい英語が通じます。 あと、葉巻工場ではちゃんと見学者のためのガイドがいて、「スペイン語での説明が聞けるグループ」と「英語での説明が聞けるグループ」のどちらかを選ぶことができます。同じく革命博物館でも入口で「2ドル(だったと思う)で英語かスペイン語のガイドがつけられますよ」と言われました。観光地ではある程度英語ができればコミュニケーションはとれると思います。(ただし、私たちは、スペイン語はおろか英語すらまともにしゃべれないので苦労する場面も多々ありましたが) ハバナ市街を歩いていると、地元の人にしょっちゅう(んもう、ほんとーにしょっちゅう)声をかけられます。「ハポン?」「ジャポネ?」「シガー?」「はま~き」「サヨナ~ラ」etc. で、その呼びかけに反応してしまうとスペイン語や英語でまくし立てながら、「上質の葉巻が安く買えるよ」だの「美味しいレストランがあるから案内してあげる」だの「タクシー止めてあげる」だの「日本人なら1ドルちょうだいよ」だの、つきまとわれます。そういうときは無視するか、「ノー!」と強く言うしかありません。戸惑っているような態度で歩調を緩めたり曖昧に笑っていたら、「脈あり」と思うらしくいつまでもついてきます。日本人が珍しいのか、それとも日本人は金持ちだと思っているのか、ヨーロッパの観光客に対しては、さほどつきまとっている感じはしなかったですね。あるとき、オープンカフェで休憩していたら、3メートルくらい離れたところから、みすぼらしい(失礼)格好のおじちゃんが熱い視線を送ってきたのです。「?」と思っていたら、そのおじちゃん、こぼれるような笑顔で「あなたのそのバッグ私にくれませんか?」というジェスチャーをしてきた。私も同じくらいこぼれるような笑顔で首を左右に振りましたけど。
奄美諸島をもっと知りたい!
島に恋して毎日毎日奄美のことばっかり考えていた私が次に島を訪れたのは初めて来島してからちょうど1年後のGWでした。ようやく二度目の来島がかなったのでした。 今回は奄美諸島を全部まわろうというかなり欲張りなプランでした。残念ながら与論島だけは飛行機が満席で行くことはできなかったけど、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島と周遊(豪遊?)することができました。 奄美空港からレンタサイクルであやまる岬まで行き、再び空港に戻って来たとき3時間経っていました。その後、バスで2時間ちょっと揺られ南の玄関口の古仁屋(コニヤ)に着いたのは夜の7時でした。そして、徳浜、安脚場を案内してくれたあの青年と1年ぶりに再会したのでした。青年は何か顔が変わったような気もしたけど、あの局員のおばちゃんとそっくりでした。実は青年はあの局員のおばちゃんの息子だったのです。 2日目の朝は少し天気が悪く小雨がパラついてたけど水中観光船せとに乗ってさんご礁の世界へ!!雨でもけっこうきれいに魚やさんご礁が見れて感激しました。お昼にフェリーで加計呂麻島へ渡り諸鈍までの道を思い出しながら歩きました。(前回は海上タクシーのおっちゃんが車で連れて行ってくれたのでいまいち道を覚えてなかったけど…一本道でよかった)あの郵便局に行くとおばちゃんは昼休みだったので長浜公園でパンを食べながら待っていました。 休憩が終わるのを見計らってもう一度郵便局を訪ね、あのおばちゃんとおっちゃんに再会しました。昨日の青年の話ではおっちゃんに車を貸してもらうように頼んでおくということだったのに、いっこうにそんな話が出てこない。仕方がないので、あつかましくも車を貸してもらいまたもや道を思い出しながら、徳浜の塩工場へ行った。塩のおっちゃんは塩作りを始めた理由とかいろいろ熱く語ってくれました。裏の山にあるパパイヤの緑の実を取っておみやげにくれました。パパイヤは緑のときは野菜として使い、つけものにしたり、千切りにして野菜炒めに入れるとおいしいと教えてくれました。黄色くなると果物になるけど、その前に鳥たちに食べられるということでした。友達は塩を1kgも買って帰りました。スゴイ!! 今回加計呂麻島を訪れた本当の理由は青年に加計呂麻島を1周案内してもらうためだったけど、青年は祝日なのに仕事だったので、友達と2人で観光しながら青年の帰りを待っていました。連絡しても携帯は圏外で通じずウロウロしてると局員のおばちゃんがちょうど郵便局から出てきて「呼んでくるわ」と歩いていく方向を見ると…家は郵便局の隣でした。 夕方ですぐ暗くなるから1周はムリなので、あの恋した安脚場、島尾敏雄の文学碑がある呑ノ浦(ノミノウラ)、加計呂麻島のもう一つの港の瀬相(セソウ)を案内してもらいました。あっそうそうお腹のすいてた私は車に乗る前に「加計呂麻でどこか晩ご飯食べるとこあるの?」と心配して青年に聞いてみました。すると青年は「親が家で晩ご飯用意してるよ」と言ってくれたので私は安心して車に乗ったのでした。 島を半周して家に着くころには真っ暗でした。おばちゃんの家でご飯をよばれてると、その日は踊りの練習の日でおけいこに近所のおばちゃんの友達が来ました。おばちゃんが着物に着替えてきたので楽しくなって写真を撮りました。「ゆっくりしていきぃ」と言われたけど古仁屋に帰るため10:30頃生間(イケンマ)港まで青年に送ってもらい、港におったおっちゃんに船を出してもらい加計呂麻島をあとにしたのでした。